「新建築住宅特集」5月号の特集記事にて、野沢正光(建築家・住宅遺産トラスト代表理事)による「引継ぎを待つ住宅遺産の現在」という文章が掲載されました。園田邸からスタートして13年、私達の活動の現状と課題、想い。
※素晴らしい住宅遺産の写真も掲載されましたので、是非「住宅特集」5月号(2012年)、あるいは,住宅特集オンラインもご覧ください。
住宅を体験するという文化
住宅遺産トラストの誕生は、吉村順三による「自由が丘の家(園田邸)」(1955年)の継承が発端であった。園田邸は、音楽会を催し建築の価値を伝える長い充実した活動の末に新しいオーナーに継承され今日に至る。園田夫人は気長にそれを待ってくれた。幸運なことに、新しいオーナーの信頼を得て、この住宅のさまざまな活用に今も関わらせていただいている。
この継承から数年後、一般社団法人「住宅遺産トラスト」(以下、トラスト)として今日に至る体制を整えた。それから活動はすでに8年を数える。この間、歴史的建築遺産であると考えるいくつもの住宅が、この活動とさまざまな人びとのサポートにより、かろうじて消滅を免れ、新たな所有者のもとに継承され、それらは、多様なかたちで使用され維持され活用されている。これらひとつひとつについては、トラストのホームページ(http://hhtrust.jp/)を参照してほしい。もちろん住宅という性格から、それらは新たな所有者のかけがえのない生活の場となっており、私的なものであることにより、その多くは公開がはばかられる。しかし、いくつかは何らかのかたちで公開されたり商業的利用で社会に開かれている。戦前に建てられた大きな住宅などの維持は、何らかの商業的活用なしに保全することは難しい。むしろ公開を果たしながら活用することが、それら住宅の命脈を保ちつつ体験の場として永続させる手段なのである。それら見学可能なものについては、ぜひ現地を訪れ、実際に体験し味わってほしいと願う。
私自身、この活動の経験から得た実感がある。トラストに関わる者は望外の僥倖に恵まれているという実感である。その僥倖とは、所有者の求めに応じ、継承という課題に取り組む時間の中で、それらの住宅を訪問し、いわば「鑑賞」しながら継承について考えることが私たちには可能であるということだ。建築の設計を生業とする私自身、この活動に関わることになる以前、どれほどの個人住宅をその内部に至るまで詳細に見る機会があっただろう。それは、実に数少ない体験でしかなかったことを残念に思いながら振り返る。実は多くの建築家がそうであるはずだ。
そして、時代ごとの質の高い住宅の体験は、住宅を手に入れたいと思う人びとにとって、残念ながら縁がないと気づくことにならないだろうか。一般の人びとがどのような住宅をつくるかを考える時、住宅展示場に足を運ぶほかに住宅を体験することがない。その結果が今日のこの街をつくり出している、と考えれば、そうではない「そのほかの選択肢」を社会にわれわれ専門家が提供すべきではなかったか。住宅という文化は、それを享受し楽しむ多くの人びとが広範に存在することにより、その真の豊かさをつくり出せるはずではないか。トラストによる住宅の保全継承は、その一端をささやかに担う任務でもあると改めて思う。
住宅は、それを所有し、そこに居住する人の生命と個性を社会から守る、いわば快適に秘匿するものといえよう。それが住宅の基本的機能であることはいうまでもない。住宅という、時代を表象する「作為」は、仮にそれを知ることが必須な職能である建築家であったとしても体験することは難しいのだ。
単純な比較をしよう。映画作家や音楽家が過去の作品をほとんど見ず、それらを鑑賞し分析することなしに作家として活動することはまったく考えられないだろう。過去の建築を知ることなしに建築家の活動があるとすれば、それが極めて乏しい鑑賞、分析のうえで行われていると考えられるのではないか。だから、いかに優れたものであっても、その意味を建築家自身もなかなか社会化できず、いつの間にか実につまらない外的理由により壊されてしまっているのかもしれない。その時、当事者である建築家自身も嘆くことはあっても、声を上げることは極めて少ない。誰も味方を見つけることができないからだ。自らが鑑賞し分析し血とし肉とするために、または歓びのために、そこにあることが必須なものの消滅に心が動かない。住宅という作為、その体験の継続継承の難しさと不幸、その理由はここにあると私は思っている。
トラストの活動の難しさはさまざまにある。その第一が、先にも書いたが個人の資産に直接関わるものであることだ。詳細を記述することの難しさもそこにある。秘匿すべき作業の中で鑑賞する者としての私の体験を、穏やかな住まい手の了承を得たことを根拠にひとつだけ書いておこうと思う。吉村順三が設計した、メゾネット住戸5つからなる小ぶりな集合住宅「目黒ハウス」(1979年)である。駐車場スペース、アプローチを含めた建築のつくられ方にも納得するが、2層のアパートメントユニットに合理的に配された諸室、小さな出窓や玄関扉の採光と通風の工夫仕掛け、それらの結果としてのプロポーション、赤いベルベットに包まれた階段手摺りなどの気配り、すべてが素晴らしかった。そして、現所有者はそれらを愛おしいものとして正確に熟知していた。この集合住宅は吉村の作品集に掲載されている。しかし、作品集からそれらを知ることは不可能である。実物の豊かさは実物のほかに知る術はない。先ほどのたとえを再び借りれば、映画鑑賞の友であるパンフレットを見ただけでは映画本体を見たことにはならない、それほどの違いである。映画は、望めば万人が鑑賞可能であり万人がその作為を楽しむことができるが、建築、特に住宅はそれがかなわない。住宅こそその実物を体験しなければ真に理解することはできないのである。
何より住宅の保全は極めてデリケートな問題をはらむ。住宅という私有の資産そのものが極めて秘匿すべきものであり、秘匿しながらその後継を探すことの難しさがまずある。継承者を探す過程で、本来は広く公知したいところだが、秘匿すべきとは、それをすることをできれば避けたいということである。私たちの作業は、この矛盾の中で新たな継承者を求め、今までこの住宅で生活しそれを愛し維持してきた方から、新しい所有者に手渡しすること、ささやかに繋ぐことを役割としてきた。トラストのホームページに記載のある住宅群は、そうした活動の結果である。それらは、事例ごとに多様な事情がある。だからこそ、プロセスや手続き、顛末は、ふたつと同じものはない。ひとつひとつが異なる重い物語をもつ。
新しい風
ここ数年、トラストを取り巻く周辺が様変わりしてきていると感じる。会員の募集、公開可能な住宅の見学会や講演会、シンポジウム、展覧会、webなどでの情報発信や啓蒙活動、そして住宅遺産継承の実績、これらを通して徐々にトラストを知る人びとが増えているという実感をもつ。さまざまな問い合わせがあるのだ。
はじめて一般の不動産業を営む方から相談があったのは4年ほど前である。これまでであれば、どんなに著名な建築家による住宅であっても価値は土地にだけ存在し、古い上屋(建築のことである)は無価値であり、むしろその解体費用を土地価格から減ずる、というのが不動産業の常識であった。それが、「この物件は上屋にいわゆる建築的価値があるらしい、住宅遺産トラストという組織がそれについて何らかの作業を行っているらしい、問い合わせてみよう」ということが起き始めたのである。これは日本の社会経済の通常のフローとは異なり、不動産業界に今までにまったくない新しいものに見えたし、私たちにとってはちょっとした事件でもあった。この最初のケースである住宅は、建築史上きわめて重要な建築家の初期の記念すべき作品であり、幸運にも熱心な継承者に手渡され、しかも継承者の希望により設計した建築家自身の手により詳細なリノベーションの設計がなされ工事も進捗しつつある、そのことだけは今ここに記すことができる。いずれ本誌にその経緯と全貌が紹介されるはずである。
こうした事例が示すように、住宅遺産に対する社会の興味は、この10年ほどの間に広範に広がり、近年それは急速に高まっているようだ。一般向けの雑誌でも住宅遺産についての連載が組まれ、特集が企画されたりもしている。連載では、われわれが直接関わった住宅のほかにも数多くの継承事例、または近い将来継承を待つ住宅が大判の写真により紹介され、多くの読者の関心を得た。継承を考えてくれるいわばマーケットにあたる多くの人びとが、こうしたメディアを通じて住宅という文化とその歴史的意義を楽しんでくれることが、今後継承すべき住宅が確実に守られていくことに直接繋がることとなる。
そんな変わりつつある状況の中、小さなコミュニティとして住宅遺産を取得したいと考える一群の人びとが立ち現れつつある。詩人の谷川俊太郎が篠原一男に依頼し、1974年軽井沢に竣工した「谷川さんの住宅」が、ある実業家により積極的に取得され継承がなされた事例は、この一群の人びとの存在を改めて確認することになったケースといっていいだろう。保存を言い立てても、なかなかそれを繋ぐ人を探すことが難しく、時間切れに陥り、泣く泣くその解体の現場に建つ、そんなことが過去になかったわけではない。隔世の感がある。
「谷川さんの住宅」に限らず、いわゆる週末住宅には佳作が多数ある。そして実はそれらが日常の生活のための住まいでないことにより、建築としての面白さ、建築家の作為がピュアに表れている。しかし、それらは使用されなくなり放置されることもまれではない。これら佳作の継承をいわば建築家の「作品」を所有する楽しみとして考える人びとも現れつつある。妹島和世が1994年に発表した「森の別荘」もそうした事例と考えられよう。新しい所有者は自身の別荘でありアーティストに開く場所としてこれを取得、設計者の手により近々本格的に改修が施され再生することになる。週末住宅の佳作は今後数限りなく継承のリストに挙がるのではないか。喫緊の課題としては宮脇檀の「山荘《さんかくばこ》」(1972年)の継承が控えている。気になる別荘建築はほかにも多くある。それらが放置され朽ちることなく継承されることを祈る。
住宅遺産を引き継いでいくために
昨年2020年はコロナ禍の1年であった。この困難な時間の中、トラストの最大の宿題は篠原一男「から傘の家」(1961年)の継承であった。戦後のモダニズム住宅のメルクマール、最重要の住宅作品のひとつといっていいであろうこの住宅は、建設に着手される予定の計画道路の上に建つこと、所有者がここでない場所への移住を望んでいることなどにより移築を考えざるを得ない状況にあった。この住宅をめぐる課題は、東京工業大学の篠原門下の人びと、直接間接に篠原に何らかの教えを受けた人びとにより熟考を重ねたが、当初からは思いもよらぬ方向に進み、国外に移送され、さまざまな建築群が立ち並ぶ中に再建されることになる。すべての部材は丁重に解体のうえ、修復されたのだが、これに関わった工務店の力量も素晴らしかった。今は船の中だろうか。今年の末にはその晴れがましい姿が現れることと思う。東工大チームを中心にまとめられるであろう報告書と共にその日を待ちたい。
海外での篠原への評価、そしてこの国の戦後モダニズム住宅への彼らの憧憬がこの移送移築の陰にあることはいうまでもない。このことをこの国の貴重な宝の流出と考える人が少なからずいることも理解する。しかし、未だ建築資料の保全すらままならない風土の中、「ぜひともほしい」という彼の国の熱いリクエストに応えることが、この国の建築文化をわれわれ自ら覚醒させ改めて確認することとなる。そのことも期待したいのだ。
ほかにもたくさんここに記し報告したいことがある。たとえば戦前に建てられた質の高い和館を見ると、それらが極めて重要な意味をもち注目すべきことだと思う。「から傘の家」の解体に伴う部材の補正を通じても日本の木造技術の洗練に驚嘆することが多くあった。戦後の木造モダニズムと呼ばれる住宅群がそれによりつくられていることを改めて実感したのだ。たとえば、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの片腕であった松ノ井覚治の「数江邸住宅」(1939年)や、藤井厚二の手による「喜多源逸邸」(1926年)もそうした住宅と考えられる。「喜多源逸邸」は解体の危機を免れ、引き続き理想的な継承者と出会うべく東西のトラスト関係者で活動を続けている。
「土浦亀城自邸」(1935年)の帰趨もある。吉阪隆正の「villa CouCou」(1957年)の継承もある。白井晟一の「増田夫妻のアトリエ」(1959年)は、孫である白井原太の改修設計により、2021年に「アトリエNo.7」として再生し、継承を待つ。このほかにも多数の引き継ぎを待つ住宅があるが、それらひとつひとつが異なる課題を抱えている。うまくいっているものもあり、難題が片付かないで難渋中のものもある。それら多くが、本当に喫緊の課題であり、その解決が住宅という文化の健全な保全のために望まれることなのだ。
継承保全の前に立ちはだかるものとして、時間の問題がある。住宅遺産の継承には時間がかかり、締め切りが迫っていればいるほど継承の可能性は低くなる。その根本にあるのが「相続」という制度である。住宅の耐用年数という税法上の誤解を誘導する制度まである。当たり前だが、それらは「住宅」を文化として評価する視点をまったくもち合わせていないのだ。何とかしたいが、これらの制度は極めて堅固に立ちはだかる。ほかにもさまざまなことに活動の中で気づかされる。われわれの活動を持続可能なものとすべく、その仕組みの構築を含め模索し実行してきたが、既存の制度が、私たちが見つめる明日を許さないという現実に直面することも少なくない。しかし努力の積み重ねは少しずつ成果と実績を生み、制度やマーケット、そして人びとの価値観を確実に変えていくはずである。活動の社会的重要性への認識はこれから一段と高まる、私はそう考えている。