中野の家(旧O邸)

〔現状〕 解体後部材保管中
〔解体前〕
所在地: 東京都中野区
竣工: 1935年(昭和10年)
構造: 木造2階建
施工: 窪寺工務店
延床面積: 約248㎡(約75坪)
敷地面積: 約1107㎡(約335坪)

 

中野の家(旧O邸)

◆ 「中野の家(旧O邸)」について

旧O邸はかつて『打越御殿』と呼ばれていたという。周囲の住宅の中で一段と建ちが高く、外観は格式を感じさせるものがある。この家は昭和10年、打越町周辺の大地主だった鈴木與三郎により建てられた。その後戦争も激しくなった昭和19年、宮城県石越町より上京し苦学で財をなしたO氏という実業家の手に移る。

O氏の手によりこの家は戦後第二の人生を歩むことになる。O氏の趣味がさらに重ねられ、この家はより豊かな空間を獲得して行ったといえる。O氏は明治32年、宮城県石越町で生まれ上京、法政大学を大正12年に卒業した。卒業後は次々と会社を設立し実業界で多くの業績を残した。

正門には、高さ3.2メートルもある稲田石を立て、木製の門扉がついている。かつて打越御殿と呼ばれていたのにふさわしい豪華な門構えである。玄関はむくりの付いた入母屋屋根で、右手は切り妻屋根のベイウインドウを持つ洋風応接室である。当時の流行りの洋風応接室を持つ文化住宅に準えるが、軒は深く破風板のバランスも和風でむしろ和風に折衷が進んでいる外観と見て取れる。主屋の間取りは、庭に向かい、縁側が廻ることで自然に親しい日本特有の間取りである。

旧O邸の建物の特徴の一つは、今では手に入らない良材を使用していることである。座敷の柱などは四面柾の檜を使用し、玄関の床板は欅の一枚板を使用している。「鈴木家御住宅工事控」には使用された部材の金額が書かれており、財をいとわず良材を集めたことがわかる。また、筋交いを設け、構造補強ボルトが長押内に埋め込まれるなど関東大震災後の耐震を考えた工夫が施されている。

中野の家(旧O邸)

旧O邸は2000年、解体されたが、玄関廻り、洋風応接室、奥座敷棟が部材として残された。 特に奥座敷棟の和室12.5畳は天井高も3メートルを超え床の間、脇床、書院を備えた本格的な座敷である。矩折りに縁側が廻っている。材料は四面柾をはじめ桧の良材を使用している。また、玄関には式台があり火灯窓を配し、社寺建築にも利用可能なほど上質の住宅である。(伊郷吉信)

◆ 部材の継承について

現在、所有者の想いと共に、良好な状態で保存されている部材は、心ある継承者を待っている。
「旧O邸は、昭和戦前の近代和風住宅がその数を減らしてる中、きわめて貴重である。大工の建築技術は、最も発展した時期のもので水準が高い。『明治から大正・昭和初期にかけての時代は、日本の伝統木造技術の黄金時代、そしてそれは最後の頂点でもあった(近代和風住宅)』と言ったのは村松貞次郎であったが、この時代には、資本主義経済の発達とともに、富豪たちの豪邸が建設され、職人の腕に磨きをかけた。旧O邸の建物は、70年経ってもほとんど狂いがなかったという。このことは、戦前の木造技術を検証する上で重要な意味を持つ。」(伊郷吉信)

「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」が,ユネスコ無形文化遺産への提案案件としても決定された昨今、旧O邸が再建され、その姿と技を後世に伝えることは誠に大切なことである。