所在: | 東京都世田谷区 |
竣工: | 1968年 (1981年増築) |
構造: | RC造地下1階地上3階 |
設計: | 吉阪隆正+U研究室(樋口裕康、大竹十一) |
延床面積: | 209.3㎡(約63.4坪)※登記簿による現況床面積 |
敷地面積: | 257.00㎡(約 78坪) |
竣工時の用途: | 住宅 |
緑に囲まれて国分寺崖線の成城地区に建つ/©Eiji Kitada
藤森照信
昔の写真に当たると、建築が前かがみになり、足を踏んばり、急斜面を登っているように見える。登山中の家。
現在の家の前に立ち、凹凸が激しすぎて内部の予測不能な外観にひとたまげしてから、目の前の階段が奇妙なことになっているのに気づいた。階段を上がった先にドアはなくコンクリートの壁。設計者の吉阪隆正は、13年前「自邸」の壁に耳形の窓をあけ「壁に耳あり」と説明していたが何かその手の造りか。
建て主の樋口博一さんの娘さんに案内され、左手の階段を上がり、右に折れ、ピロティ空間をブリッジで渡る。個人の家でブリッジによるアプローチは初体験。
中に入ると右手が階段室で左手が主室。主室は思いのほか空間が広く感じられるのは、多角形をした部屋が多摩川に向かって広がるように計画されているからだ。その窓は横長連続窓だから、多摩川方面をひと目で展望することができる。そして中央の大きな厚い一枚板のテーブルの上には本やら図面やらが広がる。外をひと目で望む窓といい、大きなテーブルといい、客船のブリッジというか戦艦の司令室というか、家族団欒や憩いの空間というより戦いに挑むための空間のように思える。
外から見たときに気になった謎の階段についてたずねると、答えは意外で、郵便屋さんや御用聞きがトントンと上がってきて窓越しに素早く受け渡すための、いってみれば勝手口。
家族や来客はブリッジで玄関へ、勝手知ったる他人は家の前に生えるコンクリートと鉄板でできた“樹”を伝ってスルスルと主室の窓へ。
主室から上階へは、多角形にしてかつ折れ曲がる打放しの階段室を通って上がっていく。丸太のような木の手すりにつかまり、粗い打放しの隙間をよじ登るようにして進んだ先には、垂直の壁が現れ、彫刻のように曲折する鉄棒が登攀を誘う。この鎖場を登ると屋上に至るそうだが、70過ぎの身体にはキツイ。屋上からは、屋根に打ち込んだアンカーにロープを結べば、急傾斜の屋根を下ったり上ったりトラバースも可。
施主の樋口博一と設計者の吉阪隆正が山岳登山家であったことを知らなければ、造りも美学も人の家というより“猿の家”にふさわしい。猿ならこのすみかを使いこなし謳歌することができよう。上ったり下ったり、這ったりよじ登ったり、潜ったり伝ったり、猿でなくとも手脚のある動物にとってこれほど楽しい場所はない。実際、施主は、たくさんの動物と同居し、虫にさえも餌をやって生態を観察していたという。
多角形の部屋が連なる迷路のような中を経巡るうちに、直角を拒んで折れまわる壁の要所要所に四角な出っ張りがあることに気づいた。ということは、この曲折激しい家は壁構造とばかり思っていたが、柱梁の軸組(枠組)構造なのだ。
日本の鉄筋コンクリート造は、戦後、丹下健三により軸組木造の美学を鉄筋コンクリート打放しに置き換えることに成功し、世界をリードすることになるが、同時代を生き、丹下とも親しかった吉阪はその道を拒み、構造としては鉄筋コンクリート造軸組を採用しながら、しかしその表現は、軸組構造にふさわしい水平と垂直が直交する立体格子を嫌い、固まり的な美を求めてやまなかった。構造と表現の矛盾を内包していたことになる。
この矛盾の内包は、すでにデビュー作の「自邸」にも顕著で、よく見ると軸組構造をとりながら、丹下のように軸組を洗練しようとはせず、軸組という強力な秩序をせめて表現からは消し、軸組から壁に耳目を集めるべく、壁に耳を取り付けた。
構造と表現の矛盾という点では、「自邸」と〈まるひ邸〉は吉阪作品中の双璧をなす。
聞かねばなるまい。吉阪が主宰した設計組織「U研究室」でこの案をひとりで全面的に担当した樋口裕康に会うべく帯広に出かけた。空家となった小学校の「象組」の札の掛かる教室で、久しぶりに会う。
施主の樋口博一は実の兄で、まるひとは、実家の家業である軍手屋の屋号にちなむとのこと。
早稲田大学では今井兼次の研究室に学び、学生時代は名もなき集落を見歩き、B・ルドフスキーの『建築家なしの建築』を読み、バラックが好きで、鉄筋コンクリートは嫌いだったというから、これはもう今和次郎の道しかないだろう。そして、今和次郎を心から畏敬していた吉阪隆正のU研に入り、最初に任されたのが、兄が吉阪の人柄に惚れ込んでU研の仕事の一助になるよう持ち込んだ〈まるひ邸〉だった。
弟の最初の案は軸組構造の定石どおりの直交の形だったが、途中で直角を捨て斜めに変えてからガゼンやる気が出て、兄弟で突っ走る。とはいえわからないことだらけだから、設計しながら施工しながら学び、変更し、家も設計者も施主も成長していく。しかし、施工する現場はたまったものではなく、職人に3回、ノミを持って追いかけられたという。
案を練っている最中、吉阪は思い出したように口を出す。たとえば2階中央にポッカリあいた窓の形が気に入らないからと、教授会の最中につくった小さな模型を出してくるが、拒むと、まるで子どものように怒る。樋口さんの観察では、「建築よりモノづくりのほうが好きな人」だった。
吉阪の「自邸」も樋口の〈まるひ邸〉も、合理性、機能性、住みやすさは求めず、人間の心の底に潜む知力ではとらえられない情動と、生きる本能を刺激するような建築がどうしたら可能か探す過程の作だった、と建築史家には思えるが、はたしてそれは見つかったのか。
ここに“乾燥ナメクジ問題”という、歴史家として吉阪に問いたい難題がある。吉阪は戦前の、大学院生時代に中国東北地方で出会った泥の家について、「意識をのりこえて、あの姿をつくりあげるのにはどうしたら至れるのだろうかというのが、その後いつまでも私の心をとらえた」、と深い感銘を込めて記した。そしてその若き日の自分を“ナマのナメクジ”とし、その後、建築家として名をなす時期を「乾燥ナメクジ」と称し姿を絵にまでしている。
吉阪の「自邸」と樋口の〈まるひ邸〉のふたつは、ナマのナメクジとして大地や自然の上を這いまわりつつ、その感触を建築として定着するため力戦していた時期の作品と考えてはどうだろう。しかし、戦後の主流となる鉄筋コンクリート軸組構造と自分の求める表現との矛盾に引き裂かれ、結局、干からびてしまったのではないか。吉阪の描いた乾燥ナメクジの絵と、竣工時の急斜面を登攀中の〈まるひ邸〉の光景は似ているが、干からびる宿命を予想しつつ力戦中と考えたい。
干からびた後、吉阪と樋口に再び水気の戻る日が来たのかどうかは、その後のいくつかの名作が答えているが、吉阪はずっと乾燥ナメクジを自称していた。「意識をのりこえて、あの姿をつくりあげる」ことはできなかったのか。
『TOTO通信』2021年春号より
協力:TOTO(株)
©Eiji Kitada