三岸アトリエ
[ 登録有形文化財 ]
※2024年7月 継承されました
所在: 東京都中野区
設計: 山脇巌
竣工: 1934年
施工: 永田建築事務所
構造: 木造2階建て及びコンクリートブロック造平屋建て、スレート葺き
延床面積: 169.98㎡
敷地面積: 404.56㎡
竣工時の用途: アトリエ兼住宅



◆守り続けられた三岸アトリエ



山脇巌設計の三岸アトリエの前に建てられていた鷺宮第1アトリエの前で:三岸節子と子供たち

施主の三岸好太郎、油彩画家、作風を常に変えていった彼は、抽象作品、さまざまな前衛的な手法を試み、1934年には夢幻的な光景を描く抽象画家でした。彼の札幌一中時代の親友であった俣野第四郎は、「絵では食っていけない」という家族の目を欺くために、東京美術学校で建築を専攻したそうです。俣野が、やはり同校で建築を学んでいた山脇巌を三岸好太郎に紹介しました。三岸は、ドイツのバウハウスで建築を学んで帰国したばかりの山脇巌に、アトリエの設計を、自ら絵を描きながら頼みました。しかしながら、完成の 2ヶ月前、名古屋で吐血し亡くなりました。

その頃、まだ絵が売れていなかった絵描きの妻の節子は、節子の長兄の援助もあり、3 人の子供とともに、夫の遺作と思い、このアトリエを残しました。戦時中も疎開せずに中庭の防空壕を使い、アトリエを守りました。1960 年頃にやっと節子の絵が売れてきたので、編集者、画商を待たせるために、池、キッチンなどをつぶして、節子デザインの暖炉の部屋を作りました。何度か渡仏していたので、フランスの田舎家風、中庭は節子が大磯海岸で拾ってきた石を敷き詰めました。その後、三岸節子が長男の黄太郎一家とフランスに移住する時に、長女の陽子に、アトリエを残すようにと言って、嵐のようにフランス、カーニュへ旅立ちだったのです。

山本愛子(三岸好太郎・節子の孫)




◆三岸アトリエ


竣工時のアトリエ外観(左)と内部(右)


バウハウスに留学した建築家山脇巌が帰国後、友人の画家三岸好太郎・節子夫妻のために設計したアトリエ。バウハウスなどで試みられていた、のちにインターナショナル・スタイル(国際様式)とも呼ばれることになるモダニズムの建築デザインの日本における代表的作例である。

1920年代を彩った前衛美術運動の潮流を受け、山脇と三岸は設計者と施主という関係ながらあたかも共同設計のようなプロセスを経て、このアトリエの建設を実現させていった。西欧における最先端の造形改革運動に鋭敏に反応した建築家、美術家たちによるモダニズム建築受容のプロセスと、昭和初期の日本における建築および美術の領域横断的な交流の足跡をたどることのできる貴重な作品である。


アトリエ内観 螺旋階段上部は和室(旧書斎兼書庫)


いくたびかの増改築を経て竣工時の姿は改変されてしまっているが、内部空間は往時の姿を髣髴させ、1930年代の日本におけるモダニズム建築の息吹きを力強く伝えてくれている。この時期のモダニズム建築は現存するものがきわめて限られるため、その歴史的・文化的価値はますます重要度を増しているといえる。

設計者の山脇巌は妻・道子とともに1930年9月~1932年末の間、ドイツ、デッサウの造形学校バウハウスで学んだ。画家ワシリー・カンディンスキーやヨゼフ・アルバース、また当時のバウハウス校長、建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエらのもとで前衛的な造形・建築教育を受けた。帰国後は、建築家川喜田錬七郎が主宰する新建築工芸学院や美術グループ「単位三科」などへ参画、また建築家としての設計活動を通じてバウハウスでの経験を広く紹介、普及させ、日本におけるモダニズムの建築・デザインの先導者のひとりとなっていった。帝国美術学校(戦後は造型美術学園、現・武蔵野美術大学)、また日本大学芸術学部で教鞭を執った。

一方、三岸好太郎は1930年に創設された独立美術協会の結成メンバーのひとりで、その後フォーヴィズム(野獣派)、シュルレアリスム(超現実主義)などに作風を転じ前衛主義の画家として知られていた。山脇と三岸は、知人を介して山脇の学生時代より知己を得ていたが、交友が深まったのは山脇がドイツより帰国してからのち、1933年に開催された「欧州建築展」が契機だったことを山脇は回想のなかで記している。

第一次大戦の終結後に西欧の前衛的美術運動が日本へ流入し、東京美術学校(現・東京芸術大学)を主軸とするアカデミー派に対抗する芸術運動が興隆して、未来派美術協会(1920年)、アクション(1922年)、MAVO(1923年)、そして三科造形美術協会(1924年)などの美術団体が相次いで結成された。山脇や三岸はこれらの気運を受け、とくに三岸が建築へも関心が高かったことから急速に親しくなり、新たなアトリエの設計依頼に結実していったという。山脇は三岸との美術・建築談義について、「元気でねばりのある三岸氏の前にいると、会う度毎に面白くなって行く。話はお互いに寄り道をしながら、いつも絵と建築の間をまっすぐにどこまでも続いて行く」と述懐している(出典:山脇巌「間に合はなかった三岸君の畫室」『アトリエ』11巻8号、1934年8月)。

また、インターナショナル・スタイル(国際様式)など西欧で進行中の新たな建築運動の成果をいちはやく導入し、建築家ヴァルター・グロピウス設計によるデッサウのバウハウス校舎やマイスターハウスの建築にみられる造形的特徴を彷彿させるデザインが試みられていった。鉄筋コンクリート造や鉄骨造など近代的工法で建設されることを本来前提にしているモダニズム建築を、コスト制約のため木造によって実現している。屋根は、実際には緩勾配の片流れ屋根だが、外壁を屋根面より上部に突出させることで、あたかもフラットルーフ(陸屋根)であるかのような外観をつくり出していた。また竣工時に南面および東面の外観を広くおおっていたガラス窓は、通常はスティール・サッシュが用いられるところを木製建具で代替したものである。門を入ると眼前に泉水が据えられ、その上部には庇が水平に伸びていた。この庇は、アトリエの箱状のヴォリュームと対照的で、両者の絶妙なコンポジションが印象的である。

アトリエ内部の螺旋階段も、絵画作品を上階から見下ろすために設置されたものである。だが、その本来の役割を越えて、よりシンボリックな造形として扱われていることがわかる。アトリエの西北側には2階に倉庫が設けられたが、当初は壁面に設けられた梯子を用いてしか行くことができなかった。このようなデザイン上の操作は、三岸の芸術家としての独自の感性によるもので、機能主義によるモダニズム建築を越えた造形的特質をこのアトリエは当初より内包させていたと考えられる。

三岸から寄せられた要望について山脇は、1)ガラスの建築、2)銀色に輝くスパイラル(螺旋)の階段、3)睡蓮を咲かせる大きい池と、水面に反射して室内天井に映る陽光、4)グレイのアトリエ内壁、5)白と黒の応接室内壁、などの各点に言及している(出典:同上)。室内は色彩を抑え、モノトーンの壁面によって抽象度を高める工夫がなされていた。また、三岸は当時、西欧のモダニズムの建築に関心が高く、ル・コルビュジエにも影響を受けていたことを妻・節子が語っていたという(出典:桑澤千代「見て貰へなかった三岸好太郎氏のアトリエ-山脇巌氏の近頃の仕事」『住宅』220号、1935年2月)。アトリエは吹き抜けとなっていて、螺旋階段を上がると書斎・書庫が設けられていたが、この空間構成はコルビュジエが近代住居の空間モデルのひとつとして提唱した「スタジオ・タイプ」に通じるものでもある。

なお、建設中に施主の三岸好太郎が急逝したため(1934年7月1日)、妻節子の依頼により当初のアトリエに加えて付属住居(食堂・子供室・厨房・浴室・寝室)が急遽増築された。また、年代は判明しないが、アトリエの北側に階段・浴室・便所が設けられ、かつての応接室は壁で囲われアトリエとは別室となり、さらに2階の書斎兼書庫は畳敷きの和室に変更されている。屋根は緩勾配の瓦葺寄棟屋根に改築されて、南面のガラス窓はアルミサッシュに変えられ現在に至っている。



そして、付属住居部はのちに取り壊されていて、ご遺族の記憶によると1958年に、泉水のあったテラス部に、前面道路に接するかたちで暖炉をもつ平屋の応接室が設けられた。現在は、前面道路よりこの応接室に入る扉がアトリエへの玄関として使用されている。この応接室の北側には中庭が設けられ、さらにその奥には集合住宅(鉄筋コンクリート造3階建て)が建てられている。なお、前面道路に沿って設けられた、旧玄関に至る外部通路兼テラスへは、この応接室からアクセスできる。

アトリエ北面の窓は北側採光と大規模作品の搬出入のために設けられていたが、現在は奥に増築されたトイレ・階段・浴室に行くための通路入口として使用されている。アトリエの鉄製螺旋階段は竣工時のものがそのまま残されていて、上階は畳敷きの和室(かつての書斎兼書庫)となっている。この2階和室から、1階応接室の屋根に設けられた屋上テラスへアプローチすることも可能である。

田所辰之助(日本大学教授)