所在: | 静岡県伊豆市修善寺 |
竣工: | 1942(昭和17)年上棟 |
施工: | 大川正平 |
延床面積: | 147㎡(約45坪) |
敷地面積: | 2312.35㎡(約700坪) |
常葉大学教授 博士(学術)土屋和男
日本画家、川端龍子が修善寺に営んだ別荘。
建物は主屋と門からなる。龍子自ら設計し、大工棟梁は大川正平、1942(昭和17)年に上棟した。大川は後に龍子の東京の自宅の建築も手がけた(現大田区立龍子公園)。建設には3年ほど要したと伝わるが、正確な着工、竣工年は不明である。
まず、この建物で特筆すべきは基礎である。敷地内には伊豆特有の火山岩が点在し、その巨大な自然石を大量に敷き並べ、その上に直に大引を載せている。周囲に石が多い場所ではあるが、運搬や水盛のことを考えると他に類を見ない大変な地業である。この基礎のためか、川に囲まれた緩斜面であるにも関わらず、建物には不陸が生じていない。外周には石の布基礎を用いて、土台を置かず柱を立てている。南側や西側では石が建物に食い込み、庭に配された石と相俟って、建物と庭を不可分の関係とする要素となっている。
左写真:アプローチ、右写真:芝庭から見た母屋
屋根は見えがかりの桁、母屋を丸太とし、東西方向に棟をもつ切妻の大屋根を中心に、部分的に小屋根が付加する。一文字桟瓦葺で、棟はのし瓦1枚と特注品の冠瓦によって低く納め、端部には特徴的な鳥休みが載る。鳥休みの鏡部には「左一つ細巴」紋が入り、これは川端龍子の発案で、以後、川端家の家紋として使われているという。この瓦には「三州鬼栄」の刻印が残る。
軒裏は、南部分は化粧垂木を吹き寄せとした竹網代、北部分は垂木を丸太とした小竹詰打である。竹網代は直交させたものと斜めに張ったものが部位によって使い分けられる。南部分の玄関、廊下、広縁の天井、北部分の台所、渡り廊下の天井は外部軒裏と同じ意匠が用いられている。
柱に面皮ないしは丸太を用いて、土壁の真壁とし、腰や床下周りを孟宗竹半割の木賊張りとする。各面の開口部には大判のガラス戸が入り、いずれにも雨戸がない。建具の当たる柱のほとんどに戸じゃくりが彫られている。
南側開口部では3間に6枚のガラス戸が入るが、中央の4枚を幅広に、両脇の2枚を嵌め殺しとして柱位置に合わせるとともに、中央4枚のガラス戸は柱より外側にあって、両側に引き分けたときにガラス戸枠が柱と重なり、2間にわたる全面開口となる。この開口部の下部は石のテラスから束石を立てているが、いずれも特徴的なデザインである。
北部分は玄関に面する側の隅を2面開口部とし、雨樋は竪樋を用いず、横の樋を延ばしてそのまま下部の池に放流する形になっている。霧避庇や妻面の梁、束の位置と相俟って、軽やかなモダン・デザインを想わせる。
内部は柱を面皮ないしは丸太とし、広間以外には長押がない。壁は、南部分では黒色系の土壁、北部分は色漆喰である。
玄関は引き分けのガラス戸が入り、菱格子の桟が目を引く。玄関の床は小叩き仕上げの石、北の壁には縦桟のみの引き分けガラス戸を入れ、戸枠ははっかけである。
主室となる広間14畳の前には、芝庭が広がり、樹間の奥には滝を見ることができる。欄間の障子は梅の枝を見立てたといい、4枚の組子がつながり、かつ2枚ずつの左右を入れ替えてもつながるという、画家の考案による秀逸なデザインとなっている。そして、露天風呂には温泉が引かれている。
左写真:広間、右写真:広間から見た芝庭(欄間の障子を梅の枝に見立てている)
2020年に屋根瓦の葺き直しを行い、瓦はできる限り再利用し目立つ位置には古い瓦を使うなど細心の工事が行われた。内外とも創建当初の状態からほとん変化しておらず、堅固な基礎と歴代所有者による維持管理によって良好な状態が保たれている。内部、外部とも、数寄屋造を基本とし、きわめて独創的で手の込んだ意匠、仕上げをしながら、全体にすっきりとした印象で、施主の美意識と大工の技量がうかがい知れる。
露天風呂
建築主の日本画家、川端龍子(本名:昇太郎、以下龍子)(1885(明治18)年- 1966(昭和41)年)は、和歌山県出身。洋画を学んだ後、渡米して帰国後、日本画に転じた。1928年に青竜社を創立して主宰し、会場芸術論を唱え、革新的な画風による大作を制作した。1959年に文化勲章を受章。1962年に東京都大田区の自邸向かいに龍子記念館を建設し、自作を公開した。
龍子は、明治期から修善寺にくり返し逗留し、1912(明治45)年に修善寺の新井旅館(当該敷地から数百メートル、15件が登録有形文化財)で絵画の頒布会を行ったという。新井旅館の三代目当主、相原寛太郎(沐芳)は東京美術学校 で日本画を学び、多くの画家や文人と交流があった。特に安田靫彦は新井旅館の多くの建物の設計に 関与している。龍子もまた新井旅館にくり返し逗留し、1960(昭和35)年には旅館の玄関にあたる 「月の棟」の改修に関与している。 龍子はまた、修禅寺の檀家となり、1957(昭和27)年には天井画を揮毫している。墓所も修禅寺にある。当該建造物は、こうした龍子の修善寺への愛着から造営された別荘で、龍子によって「青々居(せいせいきょ)」と命名された。
参考文献:川端龍子『画人生涯筆一管』東出版
1972 『生誕135年記念 川端龍子展』カタログ、広島県立美術館・水野美術館