| 所在: | 東京都杉並区 |
| 竣工: | 1960年 |
| 構造: | 木造1階建 |
| 設計: | 浜口ミホ |
| 施工: | 山一工務店 |
| 延床面積: | 104.30㎡ |
| 敷地面積: | 630.17㎡ |
| 竣工時の用途: | 住宅 |

住宅地にひそむ平屋
阿佐ヶ⾕は、戦前より多くの教養⼈が居を構えてきた住宅地として知られる。緑の多い環境と、⽐較的ゆとりのある敷地割り、低層住宅が連続する街並みは、現在に⾄るまで落ち着いた静謐さを保っている。そうした街路の⼀⾓に、平屋建てのC邸*1は⾼い垣根を巡らせ、道からその姿を慎ましく隠すように建っている。
C邸は、建築家・浜⼝ミホ(1915-1988)が事務所名を「浜⼝ハウジング設計事務所」と改め、住宅建築家として⾶躍し始めた時期にあたる、1962年に竣⼯した。施主の谷川徹三は、法政大学で教鞭を取った哲学者であり、戦後の思想界を代表する存在であると同時に、鋭い美意識を備えた美学者としても知られていた。その妻の多喜子は、ピアノをたしなみ、料理にも長けた教養豊かな人物であったと伝えられている。
谷川家の最初の住まいは昭和初期の和風住宅で、女中部屋や一段低い北側台所など、家父長制に基づく役割序列を反映した封建的構成を備えていた。谷川俊太郎の回想によれば、徹三は当初、当時流行であった男性建築家に設計を依頼することを考えていたが、より生活に即した使いやすい住まいを求めた多喜子の意向により、浜口ミホに設計が託されたとされている。
伝統的な住宅に隠蔽されていた性別や階級の差を明らかにし、専ら女性に割り当てられていた家事労働を軽減する近代的な住宅を提唱した『日本住宅の封建性』の著者である浜口ミホは、公団住宅におけるステンレス流し台の導入を実現したことでも知られる。しかし、彼女の個人住宅作品に関する資料は限られている。谷川徹三邸は1967年の『近代建築』に3頁にわたり紹介されており、浜口の住宅設計における自信作であったことが示される。
浜口ミホの住宅思想の結実
本住宅は、浜⼝ミホの作品群のなかでも⽐較的珍しい、和⾵意匠を基調とした外観の⽊造住宅である。敷地内には、⻄南に1935年(昭和10年)竣⼯の純和⾵の書斎、東北隅に書庫がすでに建っており、本計画では、それら既存建物との関係性を尊重しながら、⻄北の⼀⾓に、施主夫妻のための居間、寝室、台所、⽔回りを新たに設け、内部動線によって相互に連結することが求められた。多くの来客を迎える施主の⽣活に配慮し、⽞関は応接の場としても機能する、ゆとりある空間として計画されている。
居間には、東からの朝⽇と南側の庭景を取り込む⼤開⼝が設けられ、四季の移ろいや敷地内に暮らす家族の気配を感じ取れる、穏やかで開放的な居場所がつくられている。⼀⽅で、⾷堂および台所は、居間と視覚的には連続しながらも天井⾼を抑えることで、空間としては明確に性格づけられている。トップライトによって柔らかな⾃然光が導かれ、作業と⾷事の場にふさわしい、落ち着いた明るさが確保されている点も特徴的である。台所は、ステンレス製のキッチンを中⼼に、浜⼝ミホが⼀貫して重視してきた、無駄のない⼨法計画と豊富な造り付け収納によって構成されており、限られた⾯積のなかで⾼い機能性と作業効率が実現されている。また、居間を経由することなく、引き⼾によって直接勝⼿⼝へとつながる動線が設けられており、⽇常的な家事の流れと、来客を迎える際の動線とが過度に交錯しないよう、細やかな配慮がなされている。
こうした⾷堂・台所の空間構成には、家事や⾷事といった⽇常⾏為を付属的なものとしてではなく、住まいの秩序を⽀える重要な営みとして位置づける浜⼝ミホの視点がうかがえる。居間の開放性と、天井を抑えた⾷事・調理空間との対⽐は、空間的な抑揚を⽣み出すと同時に、住まい⼿の⾝体感覚や⽣活のリズムに即した、きわめて実践的な住宅観を静かに物語っている。
随所に設けられた豊富な収納は、哲学者・詩⼈という知的⽣産を営む住⼈たちの⽣活を⽀え、蔵書や資料を多く抱えながらも、空間の秩序を保つことを可能にしていた。居間、寝室、⽔回り、⽞関ホールは段差を抑えながら⼀周できる平⾯構成となっており、当時まだ⼀般的ではなかった⾼齢者への配慮、すなわち今⽇的な意味でのバリアフリーの思想がすでに実践されている点も注⽬される。ここには、住まい⼿の⾝体と⽇常に寄り添う空間を追求した、浜⼝ミホの設計理念が明確に表れている。
現存する原型
この住宅は住まい手によって丁寧に使い継がれ、竣工当時の状態を今日までよく保っている。浜口ミホは自分の名を主張する建築ではなく、住み手の人生とともに長く生き続ける「原型」をつくることを切望していた。その思想は谷川徹三、谷川俊太郎という二人の思想家・詩人、そしてその家族の人生を静かに受け止めるこの住宅において、確かなかたちで結実している。現在もなお原型をとどめる徹三邸は、「住まいは生活の器」という浜口ミホの建築哲学を、時代を超えて今に伝える存在である。日本住宅の近代化と民主化に生涯を通じて貢献した建築家による数少ない現存住宅として、建築文化の観点から極めて高い価値を有する本住宅が、新たな継承者のもとで次代へと引き継がれていくことが期待される。
1:1967 年出版の雑誌『近代建築』で浜⼝ミホは⾕川徹三・俊太郎邸を「C 邸」と名付けていたため、その名称を残すことにしました。
上田佳奈(建築家・お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所客員研究員)


浜口ミホが設計したC邸は、私の祖父、谷川徹三の家でした。私が育った家は芝生の庭をはさんで同じ敷地内にあり、父、谷川俊太郎が篠原一男氏に設計を頼んだ家(「谷川さんの家」1958年竣工)でした。子供の頃は下校後、毎日のように芝生の庭で遊び、遊び終わると、祖父の家で祖母からおやつをもらっていました。祖母の姉がC邸に隣接した家で生活をしており、大伯母にもとても可愛がってもらいました。庭で遊んでいる私と兄を祖母と大伯母が笑顔で見守ってくれていたのを覚えています。祖母はハイカラな人でおやつにクレープを作ってもらった事があります。子供の頃は浜口ミホの建築がどれほど革新的だったのかなど、もちろんわかりませんでした。でも素敵な空間、住みやすい家、暖かい場所という印象はありました。
父はC邸が建設される前の家に生まれ育ち、20歳代に数年家を離れた後、母と結婚して杉並に戻ってきました。祖父母の他界、母との離婚、そして佐野洋子と再婚という人生の転機があり、兄夫婦が、篠原一男が設計した実家に引越してきたこともあり、父はリフォームした大伯母の家に生活の場を移しました。その後もC邸は父の仕事場として使われていました。私の子供達が小さい頃は、毎年夏に里帰りしてC邸に滞在しました。
私の姪と甥は父の隣の家(篠原一男設計の家は取り壊して新築した家になりました)に生まれ育ち、C邸にも定期的に出入りしていました。特に姪は父と何回かコラボレーションをした事があり、C邸で撮影の企画などもありました。姪と甥にとってもC邸は思い出の場です。そしてその姪に息子が生まれた後は、C邸は四世代が集う場所となりました。こうしてC邸は、五世代にわたり谷川家の暮らしを養ってくれています。
80歳代半ばに足が弱くなった父に、階段の昇り降りが心配なのでC邸に日常生活を移してくれと頼みました。90歳になったら、と言っていましたが、その2、3年後に自分で決心してC邸を生活の場にしました。晩年は、毎朝起きるとリビングの庭の見える場所に座りコーヒーを飲んでいました。そしてダイニングテーブルでマックブックを使って詩を書いていました。朝日新聞に一番最後の詩として掲載された「感謝」はリビングで庭を見ながら書いた詩です。
私にとってC邸は子供の頃の祖父母と大伯母の思い出と父の人生がいっぱい詰まった場所です。自分勝手ではありますが、浜口ミホの現存する希少な建築、そして谷川俊太郎が人生を送った場所として、次の世代の建築家やアーティストのインスピレーションの源とになるような公共の場にしたい、と考えています。
谷川志野(谷川俊太郎・長女)

2024年 C邸にて
詩人。1931年東京生まれ。1952年、第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。1962年「月火水木金土日の歌」で第四回日本レコード大賞作詩賞、1975年『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞、1982年『日々の地図』で第三十四回読売文学賞、1993年『世間知ラズ』で第一回萩原朔太郎賞など受賞・著書多数。詩作のほか、絵本、エッセイ、翻訳、脚本、作詞など幅広いジャンルで活躍。作品は海外でも多数翻訳され、2020年に国際交流基金賞、2022年にストゥルガ詩の夕べ金冠賞を受賞。音楽を愛し、その詩は合唱曲としても親しまれたほか、ジャズピアニストで作曲家の息子・谷川賢作率いる現代詩を歌うバンド、DiVaとともに全国各地での朗読、ライブ活動にも力を注ぎ、詩の裾野を大きく広げた。2024年11月13日逝去。
スギナミウェブミュージアム
https://www.suginamiart.tokyo/webmuseum/tanikawa_shuntaro/